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中央道に入る道 |
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前方の20号線に合流する旧道 |
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16.吉野宿(神奈川県) |
[行程] |
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20号線に合流したあたりが、旧吉野宿でした。
残念なことにこのあたりは、明治29年に火災にあって、五階建ての本陣の焼けてしまいました。
火災の後建て替えた『ふじや旅館』が今は郷土資料館になっています。
その向かいが旧本陣。もちろん建て替えたものです。
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旧ふじや旅館の郷土資料館
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資料館の向かい・旧本陣があった所 |
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歴史民族資料館で、たいへんお世話になりました。
昼食がまだだったので、この付近に食事できるところが
ありますかと管理人の方に聞いたところ、
近くのセブンイレブンで何か買ってきて資料館で
食べても良いですよ、とお茶まで出していただきました。 |
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たいへんお世話になりました。ありがとうございました。
資料館には、貴重な写真がありました。お願いしていみると、撮影OK、ホームページへのアップロードOKでした。
このページに来て下さった方々にも、ぜひ見ていただきたいと思います。 |
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17.関野宿(神奈川県) |
[地図] |
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3kmほど歩くと次の宿場『関野宿』。 交番の向かいに一里塚があるから見落とさないように、という管理人さんの声に送られて出発です。 道の左側の榎は、すぐ見つかったのですが、『一里塚』とは、どこにも書いてありませんでした。
関野宿にはかつて本陣、脇本陣があったとのことですが、
明治21年の火災とその後2回の火災で、宿場の面影を残すものは消失してしまったとのことです。
本陣跡の案内板があるにはあるのですが、甲府方向に向かって進むと目に入らない位置にあります。
後になって(05/ 7/13)、通りがかりに写真撮影できました。
藤野町教育委員会作成の案内板によると、
関野本陣は延宝2年(1674年)に設定され、江戸から18里の位置にあるとのこと。
藤野一里塚との位置関係がおかしいとも思うのですが、ここらあたりはよく分からないのでしょう。
関野宿は、吉野宿へは26町(約2.8km)、上野原宿へは24町(約2.6km)の距離にあります。 |
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(17)藤野一里塚(日本橋から17里/66.8km)?
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関野本陣の案内板(振り返って) |
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現在の関野宿
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かつての関野宿 |
吉野宿の郷土資料館で、旧道は、国道20号線とはくっついたり離れたりしていたと教えて頂きました。
しかし、現在では不明になっているし、分かっていても通れなくなっているとも聞きました。
ところが、名倉地区という信号で左に折れて、境沢橋のところで右に上がって行くのが旧道ですよ。
と資料館で教えていただきました。
そこで名倉地区という信号で左に下っていき、右に曲がる感じの登り口にきたのですが、
その曲がり方が、どう考えても旧道らしくないと思いました。旧道はもっと滑らかなはず。
そこで、通りかかった年配のカップルに聞いてみました。
案の定、「旧甲州街道は、(下の左の写真にある)白い橋をわたって、藤野の駅の方ですよ。
あの白い橋は、知っているだけでも3回かけ直しがありましたよ。」
納得のいく説明でしたが、時間がないので確認はできませんでした。
次回車で通るとき、確認してみたいと思います。 因みにこの白い橋が神奈川県と山梨県の県境です。 |
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手前旧道の登り道。
名倉地区の信号は登り坂の左側。(見えません)
白い橋をわたるのが旧道とか。 |
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坂を上ると諏訪の関 |
坂を上っていくと、武田氏が甲州と相州の国境防衛のために作った諏訪の関。 更に進むと長野の諏訪大社の末社である諏訪神社があります。 |
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こじんまりとした諏訪神社
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嬉しい道標 |
(18)塚場の一里塚(日本橋から18里/70.7km) |
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右上の画像ですが、諏訪神社の少し先にありました。
ここが旧道だと確認できましたし、
東京から73km歩いたのかと、嬉しくなりました。
更に登って行くと、『塚場の一里塚跡』。
一里塚というより、神社でした。
江戸から18里の一里塚です。
『塚』というのは、墳墓の意味で この辺りには、誰のもかわからない古墳があって
この一里塚は、円墳を利用したものだったことから
その名前がついてそうです。 |
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これで今日の見所は終わりです。すぐに旧道は20号線に合流しました。
上野原の駅は、20号線から離れているので
嫌だなと思いつつも下り坂を歩いて駅に出ました。
暖かく楽しい1日でした。 |
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