8日目
与瀬宿ー吉野宿ー関野宿ー上野原駅


15.与瀬宿(神奈川県) 行程
相模湖駅付近の国道20号線がかつての与瀬宿ですが、今は、車が飛び交う幹線道路となっています。
相模湖駅を過ぎて少し行くと左側にセブンイレブンがあります。
この向かい側に明治天皇小休止跡の石碑があり、ここだけを見るとのどかな旧道の雰囲気があります。
明治天皇小休止跡の碑があるということは、ここに本陣か脇本陣があったということでしょう。
ここを過ぎてすぐ右側に登る感じの道が旧道でしょう。神社があってそれらしくなりました。

明治天皇小休止跡の石碑

左に回り込むと神社が
ところが、旧道はすぐに階段に変わり20号線に合流します。頭の上を中央道が走っています。
その先のカーブを曲がり込むとまた20号線をくぐって、旧道は20号線に別れを告げます。

左の階段が旧甲州街道振り返って)
中央道が頭の上を
中央道を再度くぐって
左20号線 右旧道


旧道を登っていくと、一気に視界が開けて美しい相模湖の眺望が楽しめます。
ぽかぽかとのどかで、下の20号線とは全然違う気持の良い道。

20号線の混雑をさけるための裏道と聞いていましたが、車はほとんど通りませんでした。

美しい相模湖の眺望

しかし、道なりに歩いて行けば良いというわけではありません。
ファミリー・オートという自動車修理工場の向こう側で、この道に別れて下るのが旧道です。
ここは道を間違えそう!要注意です。
20号線から相模湖インターに入る入口で、頭の上を陸橋が走っているのに気が付いていました。
それが旧道だろう、今回確認しようと思っていました。それはまさにズバリ。左下の写真を見て下さい。
そして、再び20号線に合流します。

中央道に入る道 前方の20号線に合流する旧道

16.吉野宿(神奈川県) 行程
20号線に合流したあたりが、旧吉野宿でした。
残念なことにこのあたりは、明治29年に火災にあって、五階建ての本陣の焼けてしまいました。
火災の後建て替えた『ふじや旅館』が今は郷土資料館になっています。
その向かいが旧本陣。もちろん建て替えたものです。

旧ふじや旅館の郷土資料館

資料館の向かい・旧本陣があった所
消失した旧吉野本陣

昭和29年の吉野宿

歴史民族資料館で、たいへんお世話になりました。
昼食がまだだったので、この付近に食事できるところが
ありますかと管理人の方に聞いたところ、

近くのセブンイレブンで何か買ってきて資料館で
食べても良いですよ、とお茶まで出していただきました。
たいへんお世話になりました。ありがとうございました。
資料館には、貴重な写真がありました。お願いしていみると、撮影OK、ホームページへのアップロードOKでした。
このページに来て下さった方々にも、ぜひ見ていただきたいと思います。


17.関野宿(神奈川県) 地図
3kmほど歩くと次の宿場『関野宿』。
交番の向かいに一里塚があるから見落とさないように、という管理人さんの声に送られて出発です。
道の左側の榎は、すぐ見つかったのですが、『一里塚』とは、どこにも書いてありませんでした。

関野宿にはかつて本陣、脇本陣があったとのことですが、
明治21年の火災とその後2回の火災で、宿場の面影を残すものは消失してしまったとのことです。
本陣跡の案内板があるにはあるのですが、甲府方向に向かって進むと目に入らない位置にあります。
後になって(05/ 7/13)、通りがかりに写真撮影できました。
藤野町教育委員会作成の案内板によると、
関野本陣は延宝2年(1674年)に設定され、江戸から18里の位置にあるとのこと。
藤野一里塚との位置関係がおかしいとも思うのですが、ここらあたりはよく分からないのでしょう。

関野宿は、吉野宿へは26町(約2.8km)、上野原宿へは24町(約2.6km)の距離にあります。

(17)藤野一里塚(日本橋から17里/66.8km)?

関野本陣の案内板(振り返って)
現在の関野宿

かつての関野宿
吉野宿の郷土資料館で、旧道は、国道20号線とはくっついたり離れたりしていたと教えて頂きました。
しかし、現在では不明になっているし、分かっていても通れなくなっているとも聞きました。

ところが、名倉地区という信号で左に折れて、境沢橋のところで右に上がって行くのが旧道ですよ。
と資料館で教えていただきました。
そこで名倉地区という信号で左に下っていき、右に曲がる感じの登り口にきたのですが、
その曲がり方が、どう考えても旧道らしくないと思いました。旧道はもっと滑らかなはず。
そこで、通りかかった年配のカップルに聞いてみました。
案の定、「旧甲州街道は、(下の左の写真にある)白い橋をわたって、藤野の駅の方ですよ。
あの白い橋は、知っているだけでも3回かけ直しがありましたよ。」

納得のいく説明でしたが、時間がないので確認はできませんでした。
次回車で通るとき、確認してみたいと思います。
因みにこの白い橋が神奈川県と山梨県の県境です。

手前旧道の登り道。
名倉地区の信号は登り坂の左側。(見えません)
白い橋をわたるのが旧道とか。

坂を上ると諏訪の関
坂を上っていくと、武田氏が甲州と相州の国境防衛のために作った諏訪の関。
更に進むと長野の諏訪大社の末社である諏訪神社があります。

こじんまりとした諏訪神社

嬉しい道標
(18)塚場の一里塚(日本橋から18里/70.7km)

右上の画像ですが、諏訪神社の少し先にありました。
ここが旧道だと確認できましたし、
東京から73km歩いたのかと、嬉しくなりました。


更に登って行くと、『塚場の一里塚跡』。
一里塚というより、神社でした。
江戸から18里の一里塚です。
『塚』というのは、墳墓の意味で
この辺りには、誰のもかわからない古墳があって
この一里塚は、円墳を利用したものだったことから
その名前がついてそうです。
これで今日の見所は終わりです。すぐに旧道は20号線に合流しました。
上野原の駅は、20号線から離れているので
嫌だなと思いつつも下り坂を歩いて駅に出ました。
暖かく楽しい1日でした。



  

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