甲州街道 Q&A

一里塚とは?
万願寺一里塚想像図(日本橋から9里目)
日野市教育委員会作
(転載の許可を得ています。)
恋塚一里塚(日本橋から21里目)
道の反対側にもう1基あったのですが、
道路工事のときに消滅しました。

一里塚は、街道の両側に約5間四方(1間は約1.82m)、高さ1丈(約3.03m)の大きさに土盛りされた塚で、
その頂上に遠くからの目印になるよう榎、樅、松、欅等が植えられていました。
一里は約3.927mで、歩いて旅した人の目安となり、また暑い盛りには一服する 格好の休憩所となりました。
実際に甲州街道を歩いてみて、一里塚跡がたいへん貴重な道しるべであるのを感じました。


一里塚は、織田信長、豊臣秀吉の時代に起源がありました。
徳川幕府を開いた後、家康は息子の秀忠に一里塚構築を命じました。
秀忠は慶長9年(1604)に大久保長安を総督とし、
永井白元と元白光重(本多重光) の2人を一里塚奉行を任命して、
江戸日本橋を起点とした五街道(東海道、中山道、奥州街道、日光街道、甲州街道)だけでなく
全国隅々まで一里塚を作らせました。


現在では、殆どが消滅して完全な形で残っているのは、ほんのわずかです。
場所も分からなくなっている一里塚もたくさんあります。

本陣とは?
日野宿本陣

小原宿本陣
本来の意味は、戦のとき一軍の大勝が駐屯した場所のことでしたが、
江戸時代になって、街道の宿場で大名や公家等が宿泊した公認の宿屋のことを言います。
甲州街道で本陣の建物が残っているのは数ヶ所で、 現在では場所も分からなくなっているところが殆どです。


脇本陣というのもあるのですが、脇本陣は本陣の利用が重なったり、
本陣だけでは供の者まで泊まれなかったりする場合のための予備の旅籠です。



[歴史の道を歩こうTOP] [甲州街道TOP][歴史][甲斐武田氏の史跡][甲州街道Q&A