5日目

国立市矢川ー立川市ー日野駅


JR南部線矢川駅を降りて、真っ直ぐ南に歩いていくと国道20号にぶつかります。
20号線を渡って更に進んで左に曲がると、くにたち郷土資料館があります。そこに立ち寄って少し勉強。
国立市の南側に、崖があってハケと呼ばれています。
ハケ下には台地の地下水が溜まって川になっており、昔から人々の生活と密接な繋がりがあったとのこと。
甲州街道の旧道は、かつてはこのハケの小川のほとりを通っていたらしいのですが、はっきりは分かっていないそうです。
郷土資料館の玄関を出て少し進んで、見下ろすと小川がみられます。

くにたち郷土資料館付近から 白鷺がいるハケ下の小川

これ以降は、このハケ下の道を歩いて、多摩川のほとり、満願寺渡船場跡をみようと、
のどかな畑の道を中央道を左に見て歩きました。
ほどなく多摩川の河川敷に出たので、水際まで行って、『満願寺渡船場跡』を探しながら歩いたのですが、
どうしても見つかりません。草に埋もれてしまったのでしょうか?

はるか向こうに日野橋/手前は府中用水取り入れ口 多摩川の土手に上がる途中で

日野橋は、はるか向こうです。川沿いに日野橋まで歩きたかったのですが、
府中用水取り入れ口の川に阻まれて、多摩川の土手に上がることにしました。
土手に上がる途中で出会った年配の女性に、「満願寺渡船場跡って、ご存じありませんか。」と聞いたところ、
「さぁ、ここに50年住んでいるけれど、聞いたことないよ。ここはお天気が良いと富士山がきれいだよ。」
ということでした。曇っていて富士山は見えません。残念!

多摩川の土手に上がる途中で『ハケ下の小川』の延長かと思える小さな川がありました。
私としては、あの小川の延長であって欲しいと思ったのですが、よく分かりません。

土手の上の道は、雰囲気のある古い道のように思われましたが、多分甲州街道ではないでしょう。
少し進むと貝殻坂というのがありました。昔貝殻が出たのでそう命名されたそうです。
ということは、かつては、ここまで海だったのでしょうか。

貝殻坂を降りて右に曲がると、国道20号線です。20号線を少し進むと立川市。
国道20号線は、日野橋を渡るために、立川に入って程なく90度に折れています。
左に曲がり、日野橋の方向に歩いていると桜のきれいな小川が道の下とクロスしていました。
これもあのハケ下の小川なんでしょうか。

5分咲きの桜が美しい! 日野橋の上

日野橋を歩いていると、日本橋から37kmの標識。先は長いと実感。
日野橋を渡ってから20号線と分かれて、土手沿いの道を左、つまり中央道の方向に歩きました。
さっき歩いた対岸を眺めながら歩きました。
のどかな土手の道を進みながら、対岸の万願寺渡船場跡を見つけられなかった悔しさを噛みしめました。
そのお陰か、日野側では万願寺渡船場跡を、簡単に見つけることができました。
少し嬉しくなって、対岸の景色を撮影して、それでよしとしました。
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日野市にある万願寺渡船場跡 多摩川の日野市側から見た国立側の風景

甲州街道には、橋のない川が3箇所。鶴川、笛吹川、そしてここ多摩川。
その中で鶴川は人足による徒歩渡し、多摩川と笛吹川には船がありました。

次ぎに探すのが、万願寺一里塚です。
万願寺渡船場で多摩川を渡ったあと、旧道は江戸から9番目の万願寺一里塚に繋がっていたはず。
万願寺一里塚のあるらしき場所に向かったのですが、見つかりません。
かなり歩き回って、もうへとへと。
それでも諦めないで、人に聞きながら探していると、あらら?ここはさっき来た場所です。
土木工事をしている人に「万願寺一里塚跡はどこですか?」と聞くと、
なんと土木工事している場所が 万願寺一里塚だというのです。

土木工事していたので、気が付かなかったんですね。
「来年、NHKの大河ドラマで、ほら、えーっと、白虎隊やるでしょう?
日野に、観光客が来るから、整備しているんです。」
「えっ、えっ、えーーー。新撰組でしょう?」
発掘調査しながらのリニューアルだそうです。榎木を植えたり。

旧道という観点から見ると、旧道の上に今は家が建ち並んでしまっているけれど、
石垣の横に一部旧道が残っています。
因みにこの石垣は、昭和になってできたものだそうです。
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(9)万願寺一里塚(日本橋から9里/35.3km)
手前が旧道だったそうです。
日野市万願寺2-38(03/ 3/31 撮影)


整備が済んだ万願寺一里塚
石垣の手前が旧道(05/ 2/21 撮影)
甲州街道は、あちこちで作り直されたり道が変更になったりしたようです。
ここ万願寺付近も万願寺一里塚を通る道は、貞享元年(1684年)以前で、
多摩川の上流を渡る道は、貞享元年(1684年)以後に使われたものだそうです。


ここで日野市内の旧道を教えて貰って歩き始めましたが、もう午後2時。
お腹が空いて目が回りそうです。
中央道とモノレールをくぐったところにある道を進むと馬頭観音があったりで、これが旧道だと確信。
20号線とぶつかったところにあった焼き肉屋さんでランチを食べて、ほっとしました。
喉も乾いていたので、お水を山盛り貰いました。


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ここから日野渡船場を渡る道を辿ります。

この地図は、日野市教育委員会によるものです。

日野渡船場跡付近(立川市側)(06/11/23 撮影)



立日橋(モノレールが通る)の南詰めから
下流に50m付近の堤防上にある説明板

(06/11/23 撮影)
日野渡船場跡(日野市側)(06/11/23 撮影)

『東の地蔵』(06/11/23 撮影)
モノレールが通る立日橋を渡って進むと、国道20号線にぶつかります。
ぶつかった三叉路は『新奥多摩街道入口』。この少し手前、進行方向左に
左の写真のお地蔵様があります。
これが『東の地蔵』ここから日野宿が始まります。

10.日野宿(東京都) 行程
日野は、八王子とともに大久保長安が作った町です。
年代で見ると、大久保長安はまず八王子を作り、ついで日野を作ったそうです。

20号線を渡って進むとすぐまた20号線にぶつかり、
それ以降は20号線を歩きます。
また左足首が痛んできたのですが、
日野駅まで頑張ろう。
20号線沿いにある
近藤勇・土方歳三も稽古した佐藤道場を見学。
今はお蕎麦屋さんだそうです。
行ったときは、営業していなかったのですが、
お庭などは自由に入れました。
この建物1863年に建てられた日野本陣で、
道場は現在の駐車場付近にあったとか。
日野の駅付近では、
20号線より一本八王子側の道が旧甲州街道だった
と聞いたので、そちらに入り、日野駅に着きました。
途中日野駅近く八坂神社の裏側を通りました。
日野本陣(旧佐藤道場)


実は、旧甲州街道は、国道20号で日野駅に達する少し手前の信号を左に曲がり、
そのまま進みますと左側に、 「宝泉寺」と言う立派なお寺があります。
このお寺は新撰組の6番隊隊長で、幕末に鳥羽伏見の戦いで戦死した、井上源三郎の墓があります。
この寺の前の道が旧甲州街道です。この路をもう少し進みますとJR中央線の線路に突き当たります。
その線路際に赤いトタン屋根の地蔵堂があります。
これは、此処が昔の日野宿の西の出入り口で、
そこを守るためのお地蔵様で「西の地蔵」と言われていたものだそうです。
さて、旧甲州街道は此処で線路を横切り、「大坂上通り」に出ます。
この路が「海」さんがお歩きになった路で此処から先は「海」さんのお話の通りです。
私の記憶では十数年前までは、
この地蔵堂の横で旧甲州街道が線路を横切るための踏切(遮断機のない)がありました。
電車の運転密度も上がり危険性が増したので多分撤去したものと思われます。
因みに日野宿の東の出入り口にも地蔵様があります。
甲州街道を逆に東の方へ進み、右側に日野警察署の少し手前の立日橋へ行く路の角にお地蔵様があります。
これが「東の地蔵」と言われていたものです。
此処から立日橋に向かう路が旧甲州街道で、
立日橋の下の河原に当時の「日野の渡し場」を示す碑があります。
旧甲州街道が整備される以前の路として、旧甲州道中がありますが、
これは谷保天神の下側(南側)を通り、
多摩川を新撰組副長の土方歳三の生家のあった石田村の万願寺の渡しで渡り、
其処から北西の方向に斜めに進み、上記の日野警察署の横に出て、
更に、現甲州街道の一本北側を通って西の方へ続いていました。
今は中央線の線路により分断されて行き止まりになっています。
ただ、この旧甲州道中沿いには、欣浄寺という寺があり、そのすぐ近くに
井上源三郎の生家が現在井上源三郎記念館として源三郎の末裔が開いています。
新撰組関連の史跡としては、甲州街道沿いではないのですが、
大昌寺が近藤勇の義兄弟の佐藤彦五郎氏の菩提寺です。
     談 渡辺 一生



   

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